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なぜ実在しないはずの架空の人物が生きてたり、死んだりするのか?

 

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僕たちは実在しない架空の人物に対しても「生きてる」「死んでる」っていうけれど(たとえば、大河ドラマに関しての会話で「坂本龍馬ってまだ生きてる?」「昨日の放送で死んだよ」みたいな会話が普通に成り立つ。)、実在しないのに生きてる、死んだっていうのって良く考えたら違和感ありありじゃないか?そう思ったので、「本当に架空の人物は生きているのか?」という命題めいた問題提起をして背理法を用いて証明してみたい。
 
まず始めに「架空の人物は死んでいる」と仮定しましょう、死ねるのは生きている人物だけであって死んでいる人は死ねませんから、死んでいる架空の人物は死ねません

。つまり、もし架空の人物が死んでいるならば、その世界においてその人物は死ねないということになり、現在世の中に流布している様々な小説アニメ映画演劇と矛盾が生じます。ということは、架空の人物は生きているということになります。
 
「架空の人物は生きても死んでもいないんじゃないか」という人もいるかもしれません。でも、人間がもし生きているか死んでいるかのどちらかならば、「生きても死んでもいない架空の人物は、人間ではない」ということになり、その「人物めいたなにか」を「人」として呼ぶことができなくなって、これも世の中に流布している様々な物語と矛盾が生じます。したがって、論理的に考えるならば、架空の人物はやはり生きていると言えそうです。(詭弁だと思いますか?)
 
さて、ここで何が言いたいのかというと、別に「架空の人物は実在する」みたいな頭の逝ったことがいいたいのではもちろんありません。
 
僕が言いたいのは、『一般的に言われる「生きている/死んでいる」ということの定義がそもそも間違ってるんじゃないの?』ということです。僕たちは一般に、肉体の死を「死」と定義してますけれど、生きている/死んでいるということの判断に、肉体が実在するかどうかというのは本来関係のない話なのではないでしょうか?
 
肉体が死んだら人は死んだと言えるのでしょうか?死んだら精神がどうなるのかはスピリチュアルな方面の人に任せるとして、じゃあ『「僕たちの頭の中にいる故人」は、生きているのか死んでいるのか』というとどうなんでしょう?
 
さて、これは先の架空の人物のアナロジーですから、やはり「僕たちの頭にいる故人」は生きているということになります。
 
そうです、つまるところ、本当の「生きている」ということの定義は、「誰かの心の中にいる」ということなのではないでしょうか?たとえそれが架空の人物だったとしても、誰かの心の中で生き生きとしているということは、その人物は生きていると言えるのでは?
 
裏を返せば、「人は誰からも思い返されることのなくなったときに初めて死ぬ」ということになります。「誰かの心の中にいる人物は『生きている』と言える」というのは、歴史に名を残している人物が、現代にもありありと影響力を残していることを考えても、直感的にわかることではないでしょうか?
 
これは数学における実数と虚数の関係のようなもの。実数の範囲で考えるから、肉体の死を生/死の判断基準にしてしまう。虚数の範囲まで敷衍して考えるならば、生/死を決めるものは、その人自身の情報の消失を意味するのでしょう。物理空間と情報空間における生死の定義の違いと言ってもいいのかもしれません。たとえ実在していなかったとしても、存在はするということです。
 
さて、ここから僕がいいたいことは1つ。人は死後も「生き」続けるのですから、「人生設計って死後のことも考えたほうがいいんじゃないの?」ということです。
 
概して最適戦略というものは、そのスパンによって変動します。短期的に良いとされる一手が、長期的にも正しいとは限りません。つまり、死後をも視野に入れることで、まさしく今やるべきことが変わってくるわけです。
 
たとえば、奈良の大仏とか法隆寺とか、生きているうちに朽ち果てず、死後にも残るものを作るというのは、そういった思考のある人々が、先祖代代やってきたのではないかとさえ思います。(欲目だと思いますか?)
 
死ぬ時に、自分はどこにいて、誰が自分のそばにいて、そして彼らはどんな表情をしているのか?自分の葬式には誰がきているのか?自分の死体は誰が始末してくれるのか?
 
そして、「自分は死後に、誰に何を残すことができるのか?」
 
死後のことまで考えて行動するかどうかは、その人の好みに依りますが、スパンをどこまで伸ばすかで今やるべきことが変わるのならば、自分はどのスパンで人生を考えるのか、よくよく考え直す必要がありそうです。
 
さて、ここまでつらつらと語ってきて最後に言いたいのは「人生の短さ」について。この世に生を受けてよわい20年ちょっと。さて僕たちは20年というものを実感として持っているわけです。
 
時間の感覚がそんなに大きくは変わらないと仮定するならば、寿命まで生きたとしてもこれをあと2~4回繰り返したら終わりです。年をとると時の流れが早く感じるといいますから、もっと短くて1~2回分ぐらいなのかもしれません。そう考えると、人生の短さが、頭だけの理解ではなく実感として感じられるようになります。こうやって実感もできて、なおかつ計算のしやすい20歳あたりはちょうどいいターニングポイントなのかと。
 
今目の前にある桜も、あと何回見られるのでしょうか?同じく計算するならば、40~80回程度??そんなに見たくないですか?でも、有限であるとわかった瞬間、急に価値を感じるようになりませんか?不思議です。この情緒あふれる感覚を古来日本人は、わび・さびといったのでしょうか。はたまた、こういう情緒を無常観とでもいうのでしょうか。
 
でも。だから。だからこそ、人生は短くて尊い
 
その短さを考慮するなら、魅力の感じられないものに対しては、たとえ1秒であってさえ、無駄にすることは唾棄した方がいいのではないでしょうか?よく生き様よりも死に様を考えるべきだと言いますが、本当にその通りなのでは?人生においてたくさんの取捨選択が行われますが、その基準の1つとして大切なものは、「自分の時間軸に何があるのか」だと思います。
 
そして、「死」というのは、自分の人生軸の行き着く先に必ず、必ず存在するものです。限られた時間を、残された時間を、何に使うかの取捨選択。悩ましい問題であるとともに、それこそが生きる醍醐味の1つなのではないでしょうか。おわり