多次元ブログ

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なぜ人は周りに流されるのか?

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人間とは「人」の「間」と書くように人間の本質とはその「間」つまり社会にあると言えるのではないだろうか。人間は社会的動物だと定義したのはアリストテレスだっただろうか、それは本質を捉えているからこそ2000年以上経って未だに言葉が伝承されているのだろう。

 

さて、人間が社会的動物だから人間は人に流されるという結論では月並みでなんのおもしろみもないので僕なりに心理学(笑)的な観点から考察してみたい。そのためにはまず人の言葉の使い方を見ていく必要がある。

 

アラビア語圏だったと思うのだがラクダが生活に深い関わりをもつ地域ではラクダの右の前足、左の前足、右の後ろ足、左の後ろ足、それぞれに別々の名前をつける言語圏があるらしい。いったいなぜか?その理由は簡単で人は重要なものに名前をつけるからである。重要なものほど会話で人に伝える必要性が出てくるからである。いちいち文章で説明するのは非効率なので短くするために概念を単語に封じ込めるのである。

 

なぜ人間の言語の使い方が人が周りに流されることの理由と関係があるのか?それは至極単純明快なことである。人が重要なものに名前をつける(言語化する)ということは逆に言えば言語が人の優先順位をある程度司っていると考えることもできる。ラクダの右足がなんというのかは知らないけれど、たとえば「λ(らむだ)」という名前だったとしよう。人が会話の中でこのλと言う単語を話していたらそれに注意関心が向く、つまり、ラクダの右足を左足とは区別して意識するようになる。まさしくラクダの右足の優先順位が相対的に上がった証拠である。

 

これは一例にすぎない。言語以外においても人の優先順位とはある程度社会が決めることなのである。身近な人がうまそうなラーメンを食べていたらそれが食べたくなるし身近な人がジムに通っていたりしたらそれが自分の選択肢の中に入ってくるようになる。友達がグミを食べているのをみると、自分がコンビニに行った時にグミが目に入るようになってくる。たとえ好きでなくてもである。そんな感じで意識していなかったことを意識するようになることによって優先順位が変わり認識が変わる。だから人は周り、すなわち社会に流されるのである。

 

人は感じていることを全て意識にあげるわけではない。「今周りにある赤いものを3つ答えよ」そう言われて周囲を見渡せば目には入っていても気づいていなかったような赤いものが意識に入るようになる。意識的に認識を変えるにはこのように意識的に探したいものを探せばいい。しかし、人の認識は無意識にも影響を受けている。この影響を与える正体が「興味関心」である。

 

この興味関心とはいうなれば「無意識に探している状態」である。カクテルパーティ効果といわれるのはこれの一例で人混みの中にいて相手のこれを聞き取れるのは自分が相手の話に注意を傾けているからであり、また人と話している時でも自分の名前が話されているのが聞こえるとそちらに注意をもっていかれてしまう。

 

友達と街を歩いているとよく「今の子かわいいな」という声を聞くが、これは意識して特定の人を探しているわけではない。知らない人を探せようもない。じゃあなにかというと探しているのではなく「かわいい子に興味関心がある」から建物や景色や足元のマンホールよりもかわいい子が目に入るのである。

 

いやそんなしょうもない話がしたいのではない。僕が言いたいのはこの興味関心というのは本能はもちろんのこと社会からも影響を受けるということである。言語の影響から認識が変わるように人の認識は社会の興味関心優先順位によって影響を受ける。自分の所属する社会を選ぶことが大切だと言われるゆえんである。