多次元ブログ

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何が正しくて何が間違っているのか

クラス1の人気者だったあいつが、、、

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よく40歳とかにやる同窓会とかで、クラスの人気者だった奴がぱっとしなくなっていたり、逆に大人しかった奴、いじめられていたやつが社長とかになってもてはやされていたりするらしい

 

高校までの学校生活においては、スポーツができるやつ、勉強ができるやつ、ただたんに面白いやつ、みたいなタイプが、正義として、あるべき姿として、理想像として、描き出され、それに人が群がり崇拝するような学園ヒエラルキーが形成されている

 

それから放り出され社会人のヒエラルキー、資本主義のヒエラルキーに放り出された途端に、序列の再編成が行われる。新しい正義の元に人々は並び替えられる。さながらアルファベット順に並んでたものが、あいうえお順に並び変わるみたいに、はかられる尺度というものが変わるのだ。

 

人が集まり、任意の社会集団が誕生した時、その集まった人からさながら湯気のごとく、あふれ出んとするオーラのごとく、社会的、集団的無意識に基づいた正義を醸成する。そして、その正義という尺度によって人々は序列化され、そこにそびえたつピラミッドのごときヒエラルキーが誕生する。

 

そして、そのヒエラルキーの頂点に君臨する、あるいは君臨したものであっても、そのヒエラルキーから放り出されれば、また移り変わった集団の正義、尺度によって序列化され階層化された結果、そのヒエラルキーにおいては最下層に位置づけられることもある。

 

それこそ、骨董品の価値などわからない、そもそも関心すらない学園ヒエラルキーに所属する子供たちにとっては、モナリザの絵など他の絵と区別はつかないし、それよりも漫画の方がはるかに価値のあるものだろう。

 

つまるところ、社会の正義は流動的であり、同じ人物でも、同じものでも、どの社会集団に入るかによって違う尺度で測られるわけで、足が速くて学園ヒエラルキーにおいてはもてはやされた人が社会に放り出された結果、使えないとレッテルを貼られることもあるように、

 

どのヒエラルキーで戦っていくのか、自分を知り見極める必要があると思うと同時に、社会の正しさに流されずに、自分が何が好きで嫌いか、どういう風に生きたいか、つまり、自分なりの正義というものをを持つ必要もあると私は思うのである。