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多次元ブログ

3次元の世の中を、より高い視点で見るためのブログ

なぜ実在しないはずの架空の人物が生きてたり、死んだりするのか?

 

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僕たちは実在しない架空の人物に対しても「生きてる」「死んでる」っていうけれど(たとえば、大河ドラマに関しての会話で「坂本龍馬ってまだ生きてる?」「昨日の放送で死んだよ」みたいな会話が普通に成り立つ。)、実在しないのに生きてる、死んだっていうのって良く考えたら違和感ありありじゃないか?そう思ったので、「本当に架空の人物は生きているのか?」という命題めいた問題提起をして背理法を用いて証明してみたい。
 
まず始めに「架空の人物は死んでいる」と仮定しましょう、死ねるのは生きている人物だけであって死んでいる人は死ねませんから、死んでいる架空の人物は死ねません

。つまり、もし架空の人物が死んでいるならば、その世界においてその人物は死ねないということになり、現在世の中に流布している様々な小説アニメ映画演劇と矛盾が生じます。ということは、架空の人物は生きているということになります。
 
「架空の人物は生きても死んでもいないんじゃないか」という人もいるかもしれません。でも、人間がもし生きているか死んでいるかのどちらかならば、「生きても死んでもいない架空の人物は、人間ではない」ということになり、その「人物めいたなにか」を「人」として呼ぶことができなくなって、これも世の中に流布している様々な物語と矛盾が生じます。したがって、論理的に考えるならば、架空の人物はやはり生きていると言えそうです。(詭弁だと思いますか?)
 
さて、ここで何が言いたいのかというと、別に「架空の人物は実在する」みたいな頭の逝ったことがいいたいのではもちろんありません。
 
僕が言いたいのは、『一般的に言われる「生きている/死んでいる」ということの定義がそもそも間違ってるんじゃないの?』ということです。僕たちは一般に、肉体の死を「死」と定義してますけれど、生きている/死んでいるということの判断に、肉体が実在するかどうかというのは本来関係のない話なのではないでしょうか?
 
肉体が死んだら人は死んだと言えるのでしょうか?死んだら精神がどうなるのかはスピリチュアルな方面の人に任せるとして、じゃあ『「僕たちの頭の中にいる故人」は、生きているのか死んでいるのか』というとどうなんでしょう?
 
さて、これは先の架空の人物のアナロジーですから、やはり「僕たちの頭にいる故人」は生きているということになります。
 
そうです、つまるところ、本当の「生きている」ということの定義は、「誰かの心の中にいる」ということなのではないでしょうか?たとえそれが架空の人物だったとしても、誰かの心の中で生き生きとしているということは、その人物は生きていると言えるのでは?
 
裏を返せば、「人は誰からも思い返されることのなくなったときに初めて死ぬ」ということになります。「誰かの心の中にいる人物は『生きている』と言える」というのは、歴史に名を残している人物が、現代にもありありと影響力を残していることを考えても、直感的にわかることではないでしょうか?
 
これは数学における実数と虚数の関係のようなもの。実数の範囲で考えるから、肉体の死を生/死の判断基準にしてしまう。虚数の範囲まで敷衍して考えるならば、生/死を決めるものは、その人自身の情報の消失を意味するのでしょう。物理空間と情報空間における生死の定義の違いと言ってもいいのかもしれません。たとえ実在していなかったとしても、存在はするということです。
 
さて、ここから僕がいいたいことは1つ。人は死後も「生き」続けるのですから、「人生設計って死後のことも考えたほうがいいんじゃないの?」ということです。
 
概して最適戦略というものは、そのスパンによって変動します。短期的に良いとされる一手が、長期的にも正しいとは限りません。つまり、死後をも視野に入れることで、まさしく今やるべきことが変わってくるわけです。
 
たとえば、奈良の大仏とか法隆寺とか、生きているうちに朽ち果てず、死後にも残るものを作るというのは、そういった思考のある人々が、先祖代代やってきたのではないかとさえ思います。(欲目だと思いますか?)
 
死ぬ時に、自分はどこにいて、誰が自分のそばにいて、そして彼らはどんな表情をしているのか?自分の葬式には誰がきているのか?自分の死体は誰が始末してくれるのか?
 
そして、「自分は死後に、誰に何を残すことができるのか?」
 
死後のことまで考えて行動するかどうかは、その人の好みに依りますが、スパンをどこまで伸ばすかで今やるべきことが変わるのならば、自分はどのスパンで人生を考えるのか、よくよく考え直す必要がありそうです。
 
さて、ここまでつらつらと語ってきて最後に言いたいのは「人生の短さ」について。この世に生を受けてよわい20年ちょっと。さて僕たちは20年というものを実感として持っているわけです。
 
時間の感覚がそんなに大きくは変わらないと仮定するならば、寿命まで生きたとしてもこれをあと2~4回繰り返したら終わりです。年をとると時の流れが早く感じるといいますから、もっと短くて1~2回分ぐらいなのかもしれません。そう考えると、人生の短さが、頭だけの理解ではなく実感として感じられるようになります。こうやって実感もできて、なおかつ計算のしやすい20歳あたりはちょうどいいターニングポイントなのかと。
 
今目の前にある桜も、あと何回見られるのでしょうか?同じく計算するならば、40~80回程度??そんなに見たくないですか?でも、有限であるとわかった瞬間、急に価値を感じるようになりませんか?不思議です。この情緒あふれる感覚を古来日本人は、わび・さびといったのでしょうか。はたまた、こういう情緒を無常観とでもいうのでしょうか。
 
でも。だから。だからこそ、人生は短くて尊い
 
その短さを考慮するなら、魅力の感じられないものに対しては、たとえ1秒であってさえ、無駄にすることは唾棄した方がいいのではないでしょうか?よく生き様よりも死に様を考えるべきだと言いますが、本当にその通りなのでは?人生においてたくさんの取捨選択が行われますが、その基準の1つとして大切なものは、「自分の時間軸に何があるのか」だと思います。
 
そして、「死」というのは、自分の人生軸の行き着く先に必ず、必ず存在するものです。限られた時間を、残された時間を、何に使うかの取捨選択。悩ましい問題であるとともに、それこそが生きる醍醐味の1つなのではないでしょうか。おわり

なぜ人は周りに流されるのか?

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人間とは「人」の「間」と書くように人間の本質とはその「間」つまり社会にあると言えるのではないだろうか。人間は社会的動物だと定義したのはアリストテレスだっただろうか、それは本質を捉えているからこそ2000年以上経って未だに言葉が伝承されているのだろう。

 

さて、人間が社会的動物だから人間は人に流されるという結論では月並みでなんのおもしろみもないので僕なりに心理学(笑)的な観点から考察してみたい。そのためにはまず人の言葉の使い方を見ていく必要がある。

 

アラビア語圏だったと思うのだがラクダが生活に深い関わりをもつ地域ではラクダの右の前足、左の前足、右の後ろ足、左の後ろ足、それぞれに別々の名前をつける言語圏があるらしい。いったいなぜか?その理由は簡単で人は重要なものに名前をつけるからである。重要なものほど会話で人に伝える必要性が出てくるからである。いちいち文章で説明するのは非効率なので短くするために概念を単語に封じ込めるのである。

 

なぜ人間の言語の使い方が人が周りに流されることの理由と関係があるのか?それは至極単純明快なことである。人が重要なものに名前をつける(言語化する)ということは逆に言えば言語が人の優先順位をある程度司っていると考えることもできる。ラクダの右足がなんというのかは知らないけれど、たとえば「λ(らむだ)」という名前だったとしよう。人が会話の中でこのλと言う単語を話していたらそれに注意関心が向く、つまり、ラクダの右足を左足とは区別して意識するようになる。まさしくラクダの右足の優先順位が相対的に上がった証拠である。

 

これは一例にすぎない。言語以外においても人の優先順位とはある程度社会が決めることなのである。身近な人がうまそうなラーメンを食べていたらそれが食べたくなるし身近な人がジムに通っていたりしたらそれが自分の選択肢の中に入ってくるようになる。友達がグミを食べているのをみると、自分がコンビニに行った時にグミが目に入るようになってくる。たとえ好きでなくてもである。そんな感じで意識していなかったことを意識するようになることによって優先順位が変わり認識が変わる。だから人は周り、すなわち社会に流されるのである。

 

人は感じていることを全て意識にあげるわけではない。「今周りにある赤いものを3つ答えよ」そう言われて周囲を見渡せば目には入っていても気づいていなかったような赤いものが意識に入るようになる。意識的に認識を変えるにはこのように意識的に探したいものを探せばいい。しかし、人の認識は無意識にも影響を受けている。この影響を与える正体が「興味関心」である。

 

この興味関心とはいうなれば「無意識に探している状態」である。カクテルパーティ効果といわれるのはこれの一例で人混みの中にいて相手のこれを聞き取れるのは自分が相手の話に注意を傾けているからであり、また人と話している時でも自分の名前が話されているのが聞こえるとそちらに注意をもっていかれてしまう。

 

友達と街を歩いているとよく「今の子かわいいな」という声を聞くが、これは意識して特定の人を探しているわけではない。知らない人を探せようもない。じゃあなにかというと探しているのではなく「かわいい子に興味関心がある」から建物や景色や足元のマンホールよりもかわいい子が目に入るのである。

 

いやそんなしょうもない話がしたいのではない。僕が言いたいのはこの興味関心というのは本能はもちろんのこと社会からも影響を受けるということである。言語の影響から認識が変わるように人の認識は社会の興味関心優先順位によって影響を受ける。自分の所属する社会を選ぶことが大切だと言われるゆえんである。

【パラダイムシフト】信仰→理性→感情

パラダイムシフト】信仰→理性→感情

 

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はたして人生というものが自己実現プロセスなのか自己発見プロセスなのかは僕の知るところではないけれど、というかその両極を線分の端と端に設定すると、さながら加重平均を取るかのようにその間の任意の点を取るのだろうけれど、僕の人生は2度の変曲点を経て、自分の人生を生きる上での指針というものがめまぐるしく変わってきたように思える。

 

というかこのような文体で「宇宙とは何か」なんてことをつらつらと書き連ねていたならば、いつまで厨二病なんだとどこかの誰かからツッコミを受けるかもしれないけれど、まあもうしばらくは大人になれそうな気配はない。努力はしている。でもまあ、大人とは社会人であることとは違ってあくまで相対的なものでしかー(割愛)

 

この世に生を受け(いやしくも産んでいただいて)、物心のついた僕の頭をまず最初に支配していたのは「信仰」だと思う。何度も言うように、これらはあくまでもウエイトの話で、つまり、何にどれくらいの重きがあるのかという割合の話であって、信仰心だけで生きていたわけではない。が、このころは大人の言うことを聞き、授業でならったことを聞いて、「そういうものなんだな」というふうに済ませていた。だからこそ、知識の丸暗記ができて学校の授業では良い点数が取れたのだと思う。疑うことを知らないということは、感情的ではあったとしても理性的ではない。それはたとえ宗教を信じていなかったとしても宗教的な生き方だとは言えるだろう。

 

しかし、この生き方に限界がきたのは大学受験に落ちた時だ。厳密に言えば落ちるまでの過程ではあるのだが。この時期に悟ったのは、信仰で問題は解けないということだ。これは受験の問題に限らず、人生の問題に一般化して言えることだと思う。この転換期を経て、理性というものが僕の関心、つまり、注意の視野にほっこりと顔を出してくるようになる。本当にこれでいいのか、なぜうまくいかないのか、論理主導の問題解決によって少なくとも机上の問題は解けるようになっていった。

 

理性主導で動けるようになった僕は、論理的に正しい、論理的にやるべきだということを自分の思うままに行動することができ、人間の認識は知識と経験によって成立っているのでたくさんの知識を詰めて経験をしよう、そう思って授業でも良い成績をとったし、たくさんの新歓に顔を出して200人弱の名前を覚えた。

 

バイトとサークルでつねに予定を埋め、朝から晩まで動き回った。夏休みには淡路島で15時間労働なんてこともあったし、冷気の充満するトラックの荷台において、手の届かない高さにある冷食の段ボールをジャンプして引っ張り下ろし、地上でキャッチ。そしてそれをリアカーまで運ぶということもやった。

 

原チャで野を超え山を越え、兵庫県の上の方に行って、シェフの被る、いびつな煙突みたいな帽子を被ってクレープを焼き、アイスを盛り付けていたこともあったし、埋め立て地の華々しいブライダルにサービスの仕事に行き、結婚式で論理を絶した幸せにまみれている夫婦が披露宴をすませ、燦々と降り注ぐ気持ちの良い5月の日光の中で会食を楽しむところを見送り、夜間まで片付けをして原チャで本土に帰宅途中。真黒な闇に燦然とまるで希望のごとく光り輝く、山の斜面にミルフィーユ状に展開するどこか異国風で歴史のあるお洒落な神戸の夜景をまぶたに焼き付け、ああ、と息とともに感嘆の声を洩らしながら寮に帰宅。

 

ショーシャンクの空に、の脱獄後のシーンのごとく歓喜の雨でも浴びるかのように顔面からシャワーを当てて汗を流すとともに、身に降り注ぐ不幸を雨に見立て、その不幸をもってこそ魂を浄化できるというカタルシスを歌い込んだ(と僕が思っている)、美空ひばりの愛燦燦を彷彿とさせながら、労働で荒んだ心の汚れをも浄化して、疲れきって布団にダイブ。なんて日々を繰り返していた。

 

不思議とつらいとか、疲れとかを感じることはなかった。いや、あるにはあったが、それが眼前に視覚化されて顕現すること、つまり、大きな関心を持って意識にあがることはなかったのである。

 

、、、いささかこの文章に終わりが見えないことと、時間とスケージュールを慮ってみるとやるべきことを履き違えているような感覚に見舞われたので、理性から感情への経過は次回というか気が向いたらということにしたい。続

 

人間が神を創造する理由

結果を見ただけじゃ原因はわからない

 

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なにごともそうであるが、結果を見ただけじゃ原因はわからない。バタフライエフェクトとはよく言われるが、たとえばテキサスで起きた竜巻がブラジルで1匹の蝶が羽ばたいたことによって生じたと言われてもそれは嘘だとは言えないのである。

 

なぜか?たとえば、他にも例を挙げるとするならば、天気予報というのはなぜ外れるのだろうか??それは現実世界があまりにも複雑なので天気予報を正確に計算する計算式を作ったところで、その計算式に入力する初期値が正確に計測できないからだ。結果として、どんだけ科学を突き詰めたところで正確に予測することはできない、ということが科学的にわかるわけである。

 

話が逸れたが、なにが言いたいのかというとある結果においてその原因は一義に定まるものではなければ、突き詰めれば突き詰める程出てくるということである。

 

たとえば、僕は字が汚いのだがそれには原因が二つあった。1つには、それぞれの字の正確な形を知らないこと。2つには、僕の脳みそ的に内容に集中するか、文字を綺麗に書くことに集中するかのどちらかしかできないということだ。一文字ずつを綺麗に書こうとすると書けるからである。内容に集中すると気づけば文字が乱れているということが起こる。それならば、内容はたとえば、パソコンで一度下書きをしてそれを移すという風にすれば解決出来る。

 

こんな偉そうなことを言える立場ではないが、世の中の人は得てして、物事を突き詰めるということをしないと思うのである。たとえば、文字が汚いのは、自分の性格のせいだ、と一度決めてしまうと、突き詰めることをしない。なぜこんなことを主張しているのかというと自分が昔そうであったからである。

 

文字が汚いのは仕方ないことではない。しかたないとか、当然だとか、ある答えを一義に定めることは思考停止をするための口実でしかない。人はよくわからないものに対して答えを求める生き物である。たとえば、野球が上手い人がいて、その人がなぜそんなにも野球が上手いのかわからない、ああ、これは才能の違いなんだ、という口実をつけて思考停止をするわけである。

 

さきからいうように、結果をみて原因はわからないのである。その人が野球が上手いからといって、それは才能なのか努力によるものなのか、そんなものはわからないのである。だから、才能だと決めつけて思考停止することは自分の負けを正当化し、努力をしないための言い訳でしかない。

 

人はよくわからないものに答えを求めて、それで思考停止をするものである。実際、いろんな人に才能とは何かと聞いてみても答えられない人が多いし、人によって答えは様々である。結局、さいのうなんてよくわからないのである。

 

神が存在する理由もそこにある。人は超常現象、たとえば、なぜ宇宙は存在するのか、なぜ人間は生まれてきたのか、などなどよくわからないものに対する原因、答えとして神を作り、神話を作った。そして思考停止に陥るわけである。雷が落ちるのは雷神様が怒っているからだ、台風が来るのは風神様が怒っているからだ。と。しかし、突き詰めてみれば現代の科学でわかっているように雷は積乱雲の中での氷の粒の摩擦から生じるものであり、風だって海水の蒸発、気圧の高低差などから?生じるものだったはずである(不勉強なので自信はないが)

 

つまり、答えを定めることは思考停止であり、自分ができないこと、わからないことを正当化するための口実にすぎないということである。人間、時間さえかければ不可能なことはない、文字が汚いのであれば答えを安易に求めるのではなく、その原因をどこまでも突き詰めて考える必要がある。そしてその原因を潰せばおのずと文字は綺麗に書けるようになる。

 

なんどもいうが人間にできないことはない。人が空を飛べるなんて一昔前までほとんどの人が想像しなかったであろう。不可能はない。不可能はないのだ。ただし、不可能がないからといって、なんでもかんでもやればいいわけではない。なぜなら、人には寿命があるからだ。

 

確かに人にできないことはないが、大切なのはそれにかかる時間である。受験においても18歳までに一定の学力をつけることが価値なのであって、何浪もすれば本当にだれでもある程度いい大学には入れるものである(時間と労力をかけて手段を選ばなければ本当に入れる)

 

しかし、大事なのは合格できるかどうかではなく(いや、合格しないとなれない職業があるならべつ。たとえば医者とか。)自分のできることからかんがみると、どのくらいの時間と労力がかかるか、という点である。

 

つまるところ、何をやるのかというのは、できるかどうかではなく、どのくらいの時間と労力かかるかこそを考えるべきであり、人よりも時間、労力がかかる分野とは自分の苦手な分野だということなので、そのフィールドでの戦いを避けて、自分の勝てる場所で戦うべきだということであろう。

 

ちなみに、文字の練習において、お金にまつわる文字が多いのは僕が経済学部だからということにしておきましょう。

何が正しくて何が間違っているのか

クラス1の人気者だったあいつが、、、

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よく40歳とかにやる同窓会とかで、クラスの人気者だった奴がぱっとしなくなっていたり、逆に大人しかった奴、いじめられていたやつが社長とかになってもてはやされていたりするらしい

 

高校までの学校生活においては、スポーツができるやつ、勉強ができるやつ、ただたんに面白いやつ、みたいなタイプが、正義として、あるべき姿として、理想像として、描き出され、それに人が群がり崇拝するような学園ヒエラルキーが形成されている

 

それから放り出され社会人のヒエラルキー、資本主義のヒエラルキーに放り出された途端に、序列の再編成が行われる。新しい正義の元に人々は並び替えられる。さながらアルファベット順に並んでたものが、あいうえお順に並び変わるみたいに、はかられる尺度というものが変わるのだ。

 

人が集まり、任意の社会集団が誕生した時、その集まった人からさながら湯気のごとく、あふれ出んとするオーラのごとく、社会的、集団的無意識に基づいた正義を醸成する。そして、その正義という尺度によって人々は序列化され、そこにそびえたつピラミッドのごときヒエラルキーが誕生する。

 

そして、そのヒエラルキーの頂点に君臨する、あるいは君臨したものであっても、そのヒエラルキーから放り出されれば、また移り変わった集団の正義、尺度によって序列化され階層化された結果、そのヒエラルキーにおいては最下層に位置づけられることもある。

 

それこそ、骨董品の価値などわからない、そもそも関心すらない学園ヒエラルキーに所属する子供たちにとっては、モナリザの絵など他の絵と区別はつかないし、それよりも漫画の方がはるかに価値のあるものだろう。

 

つまるところ、社会の正義は流動的であり、同じ人物でも、同じものでも、どの社会集団に入るかによって違う尺度で測られるわけで、足が速くて学園ヒエラルキーにおいてはもてはやされた人が社会に放り出された結果、使えないとレッテルを貼られることもあるように、

 

どのヒエラルキーで戦っていくのか、自分を知り見極める必要があると思うと同時に、社会の正しさに流されずに、自分が何が好きで嫌いか、どういう風に生きたいか、つまり、自分なりの正義というものをを持つ必要もあると私は思うのである。

「お前は自分を出してない」

「お前は自分を出してない」

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そう言われたのが去年の今頃。時の流れはとても早い、まさしく、光陰矢の如しである。最近やっと人に興味が出てきた。慣れない仕事もやってみるものだと、深々と感じ入ってるここ最近で候ふ。

 

10歳ぐらいから10年間は、僕は正直、人に興味があまりなかった。すごい辛辣というか、恩知らずというか、人としてあるまじきことだと思うが、本当にそうなのだ。

 

人は興味がないもの、知識がないものは皆同じに見える。たとえば、英語を読めない人からしたら、英文学の文章も、科学誌の学術論文の英文も区別はつかないだろう。そうな感じで、僕は長い間、人を類型としてしかとらえることができていなかった。インテリ、パリピ、インキャ、文武両道のスーパマン、腐女子、などなど。

 

言葉があるものしか認識できていなかったし、会う人会う人その類型のどれかにラベリング、カテゴライズしてそのレッテル貼り、分類分けが終わればそれ以上その人に対して深掘りしていくということはしなかったのである。まぁ、誰でも少なからずその傾向はあるはずだが、僕はそれが顕著に顕れていたというだけのことではあるけれど。

 

僕にとってはそれよりもむしろ、世の中の普遍法則、物理法則とか、人に共通する性質とか、そういった、物的なもの、およそ人ではないものにしか意識が向いていなかった。

 

なんだろう、こうやって人に興味を持ってみると、自分がコミュニケーションという点において随分遠くれていることに気がつく。おそらく、英語、数学、国語、えとせとら、そういったものにおいて、世間一般(まあ、そんなものは物理的には存在しないが)からしたら秀でているのに対し(まぁ、さすがに時間かけてやってきた分ね)逆に、僕のコミュニケーションの能力といえば、世間一般の人をはるか下から見上げているような状況である

 

わあ、よくそんなことできるなあ、と。たいていのものにおいて、一度落ちこぼれると、人は、というか僕はやる気が出ないものであるのだが、この点においては、人間関係という点においては、人生を構成する要素というものがあったとして、その多くのウエイトを占めているのは間違いがなく、逃げてばかり、というか目を背けてばかりはいられないなあ、と、

 

他の人が勉強に取り組むのが億劫であるのと同様に、僕自身、苦手意識と億劫さなどを乗り越えて誠心誠意取り組んでいこうと決意する今日この頃である。

英文を読むことと世界を読むことは同じ

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どうも、セトルスです
白猫プロジェクト
やってる人にはわかる)

今回は、勉強をすることに
意味を見いだせない人に向けて

勉強をすることで
どんなにいいこと、楽しいこと、
気持ちいいことがあるのか
というのを伝えるための発信です

「おやおや、こいつ、またまた
頭のイッたことを言いだしたぞ」

ええ、そうなんです、
もともと頭は逝ってるんですが

今日は
証券やら債権やら酔拳やらの勉強で
覚えること多すぎて発狂しそうなので

それを自覚した上で、憂さ晴らしに、
逝ってるお話しをお話しします

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最近思うんです、

「文章を読むことと
世界を読むことって同じだ」って。

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たとえば、英語を学べば、
英語の文章の意味が
わかるようになるように、

世界について学べば、
世界の意味がわかるようになる
ってことです。

英語について学ばなければ
英語から意味をキャッチできないように、

英語の文章が意味のわからない
記号の羅列に見えてしまうように、

世界について学ばない人は
世界から意味をキャッチできなくなります

これが一つ、
勉強をする意味だと思っています

あとでわかりやすい
具体例を出しますが

英単語と英文法を学べば
英文が読めるようになります

単語を学ぶということは
概念を学ぶということであり

文法を学ぶということは
概念同士の関係性を学ぶということです

(え、まだ読むのあきらめないで)

たとえば、

「猿がバナナを食べる」

という文章があったとして、

まず、「猿」「バナナ」「食べる」
という言葉(概念)を学びます

猿 バナナ 食べる

そして、「が」「を」という
文法を学ぶことで

猿という主語がバナナという
目的語を食べるという動作を行う

という関係性がわかり、
文章の意味がはじめてわかります

これと同じことが文章以外のことに
ついても当てはまるということです

野球のスイングで例えてみましょう

野球に詳しい人と詳しくない人の
2人の人がいて

ある一人の
野球選手のスイングを見たとします

詳しくない人からしたら

ただ野球選手が
①バットを振っているようにしか
見えないかもしれませんが

詳しい人が同じスイングを見れば

その野球選手が
①どのくらいのテイクバックをとって
②どういうタイミングの取り方で
③どのくらい肘をたたんで
④どのくらい重心を残して
⑤どのコースにバットを振って
⑥振り終わりのフォロースルー
をどのくらい取っているのか
⑦どんな顔の造形をしているのか

(すいません、
⑦はフザけました)

など様々な情報が
頭に入ってくることでしょう

なんということでしょう

簡単な例を挙げただけでも
6倍もの情報量の差があるのです

同じスイングを
見ていたはずなのに。

「真似してみて」と言っても、
詳しい人の方が、
より正確に真似できるはずです

それならば詳しくない人は
なぜ読み取れる情報が少ないのでしょうか?

それは、「テイクバック」
「肘をたたむ」「フォロースルー」
などの概念を知らないからです

これは英単語を知らない
のと同じような関係性です

英単語を知らないから
英語を読んでも頭に入らない

同じように、

「テイクバック」「肘をたたむ」
「フォロースルー」などの概念を
知らないから、

同じスイングを見ても
頭に入らないわけです

これが概念を学ぶということです

それならば、文法は
何に例えられるのでしょうか?

それは、スイングと
打球の関係性に例えられます

野球に詳しくない人は

大谷翔平のホームラン、
スイングのスロー再生が
テレビで流れているのを見ても

どこが素晴らしいのか
なぜホームランになったのか

などなど

スイングと打球の関係性は
読み取れないと思います

しかし、それなりに
野球に携わってきた人なら

「すげえ差し込まれてるのに
そんなに肘たたんで打って
よくホームランにしたな」とか

「そのカーブでよく
そんなに重心残して
前でヘッド走らせて
ホームランにできるな」とか

(あ、僕野球やってましたけど
下手だったので間違ってたらすいません)

「そうスイングしたから
こんな打球になったんだ」

という関係性が読み取れます

たとえば、

「ヘッドを走らせる」
という概念を知っていても

「変化球に対して前でヘッドを
走らせて打てば打球が飛ぶ」

というスイングと
打球の関係性を知らなければ

さきのホームランをみても
スイングと打球の因果関係を
読み解くことはできないでしょう

「うわあ、すごい飛んだなあ」

持つのは、それぐらいの
感想だけではないでしょうか

さっきの例で言えば

「猿」「バナナ」「食べる」

などの概念だけを知っていても
それぞれの関係性はわかりませんが

「が」「を」という関係性を
表す文法を学ぶことではじめて

猿がバナナを食べる

という文章の正確な意味を
キャッチすることができます

これが関係性を学ぶということです

そんな感じで、文章を読むのと
世界を読むのは同じようなものです

英語に関して勉強すれば
英語から意味が
感じ取れるようになるように

世界について勉強すれば
世界から意味が
感じられるようになるわけです

その結果どうなるのか?

同じように街を歩いていても
同じようにテレビをみていても
同じように人と話していても

たくさんの情報が
頭に入ってくるようになります

つまり、見えるものが増え、
考えられることが増えるのです

ストーリーテリングについて
少しでも学んだことがある人は、

君の名は。」を見ていても
まずニュース性で世界に引き込んで

観客と同じスタート地点で始まり、
ターゲットに合わせてスマホ
ツイッターなどを持ち出して
現実フュージョンをガッツリ行なって

観客が登場人物に
感情移入するように仕向け、

突然の出会いを入れて、
読者が無意識に望んでいる
ような非日常的な経験を
バーチャルに体験させる

みたいな流れに
なっていることがわかります

認識できないものに
対して人は考えることはできません

それはひるがえせば

認識できるものが増えれば
考えられることが増える

ということでしょう

ただし、ここからが注意点です

「見えるものが増えても
そして考えられることが増えたとしても
できることが増えるわけじゃないだろう」

だれもが
そう思うのではないでしょうか?

これは一般的には
【「わかる」と「できる」は違う】
なんて言葉で揶揄されることです

ええ、そうです、たとえば

大谷翔平のスイングを見て
なぜホームランが打てるのか
がわかったとしても

それで自分がホームランが
打てるようになるわけではありません

だから、知識を仕入れるということは
意味のないことだと言われるわけです。

頭でっかちだと言われるわけです。

これは確かに間違いのないことです。

英語が読めて、英語から情報が
キャッチできるようになったからといって

自分が何かを
できるようになるわけではないように

知識を仕入れたからといって、
何かができるようになるわけではありません

問題解決能力が上がるわけではありません。

しかし、英語が読めると
手に入る情報が多くなるように、

野球について学べば、
スイングひとつとっても
たくさんの情報が
読み取れるようになるように

知識を仕入れることで
問題の認識能力自体は上がるわけです

これこそが勉強するにおいての
ミソとなるものだと言えましょう

確かに問題解決能力は上がりませんが
問題認識能力は飛躍的に上がります

英字新聞を読めば
日本の新聞の報道が
偏ってることに気づいたり

野球について学べば
自分のスイングを動画で見たときに
スランプの原因がわかったり

なんかそういうことが
たくさん起こるようになるわけです

そして世の中面白いもので
問題解決能力が足りないから
解決できない問題だけじゃなく

問題自体を認識できないから
解決できない問題がたくさんあります

医学や、整体の分野など特にそうで

たとえば、僕はタイピングで
手首を壊したことがあります

ただ、人と比べてそんなに
タイプをしてるわけでは
ないのにすぐに痛くなるのです

調べれど調べれど
そしてでてきた情報を
試せど試せど、

一向に良くなりません

(マウス、キーボードの
前に置く、よくありがちな
クッションとかも買いましたが
よくなりませんでした)

それで整骨院に行ってみたところ

背の高くふくよかな
整骨院院長は、椅子に座っている
僕の背中を上から押しました

僕は耐えられず
その場に崩れ堕ちてしまいました

(少し盛ってます)

つまるところ、
手首が痛くなっていた原因は

重力に対して垂直に姿勢を保つ
ことができていなかったから
(簡単に言うと姿勢が悪かったから)

だったわけです

そして、姿勢をよく保つには
院長がしたように上から押してあげて

垂直に体に負荷をかけ、
それに耐えるように背筋を伸ばす

ただそれだけだったのです

それから僕は、気づいたときに
自分で上から圧をかけて
姿勢を正すようにすること

ただそれだけで
手首の痛みがなくなりました

さあ、長くなりましたが
何が言いたいのかというと

こんな感じで、
問題さえ認識してしまえば

問題解決能力は
さほどいらないことって
山ほどあるってことです

気づいたときに
自分の肩を上から押してみる

それができない人は
ほとんどいないわけです

もっと規模が大きなことを言うと

15世紀ドイツにおける活版印刷
技術の普及があげられましょう

むかしむかしのそのむかし、
人々は本というものを印刷する
技術を持ちませんでした

それならばどうやって、
本を作っていたのでしょう?

それは、すべて「手写し」です

キリスト教の修道士たちが、
修道院で修行の一環として黙々と
1字1行丁寧に筆書きしていた訳です

今から思えばひどく非効率なことです

そのせいで本は当時は高級品で
よって識字率も高くはありませんでした

そんなときに15世紀ドイツの
グーテンベルクという人が、

アルファベットのハンコを並べて、
文章を大量生産する方法を思いつきました。

アルファベットは文字数が
少ないので、a-zのハンコを作って、

版面に並べるだけで簡単に印刷
することができるようになった訳です

だれでも思いつき
そうな話だと思いませんか?

おそらく当時の人たちからすると

「本を作るのは時間がかかるものだ」
「本を作るのは修道士の仕事だ、
俺たち一般人のやることではない」

みたいな考えがイデオロギーとして
まかり通っていたのでしょう

また、識字率が低い、ということも
特に問題点ではなかったのかもしれません

そんなときに、グーテンベルク
「本を作るのに時間がかかる」ことを
問題点だと捉え、印刷術を作ったことで

世界の構造
そのものを変えてしまいました。

具体的に言うならば、
まず本の価格が下がり、
識字率の上昇、そして中流階級
にも知識が行き渡りました

そしてメディア
というものが誕生します

出版社はもちろん、新聞などもでき、
情報の波及速度が飛躍するとともに

出版者→人々という一方通行の
情報発信媒体が初めて確立されました

その結果として、人々に情報を
行き渡らせることができるようになり

(悪く言えば洗脳、
思想統制がしやすくなった)

キリスト教の爆発的な普及、
国民国家の誕生、マルティンルター
による宗教革命など

さまざまな
社会現象を引き起こして、

聴覚主体の情報収集から
視覚主体の情報収集の社会へ
と変えてしまいました

(ちなみに、現代の
インターネットの普及は今までの
一方通行の情報発信の構造を壊し

僕みたいなどこぞの馬の骨とも
わからない人間でも情報発信の
できる世界に変えてしまいました

その結果、
国家による思想統制も難しくなり

人々はみんなそれぞれ自分の
信じたいものを信じている、
というカオスな状況になっています)

(なのでインターネットの普及は
当時の活版印刷の発明以上に
インパクトの強いものだと思います

実質的な国家の崩壊、
グローバル化などはますます
進展するのではないでしょうか)

グーテンベルクがやったことは
当たり前を疑うということと
ただハンコを並べるという
イデアを出すことだけです

ハンコを並べるという
考え方が生まれたのは、

本を作るのに時間がかかること、
修道者などだけが本を作っていることを
当たり前ではなく解決すべき問題点として
捉えることができたからです

つまるところ、
これが問題認識能力であり、

認識さえしてしまえば
解決するのは簡単である、

ということの一例だと思います

確かに勉強をすることで
問題解決能力は高まらないように
直感的には感じてしまいます

しかし、認識さえすれば
解決できる問題というのも多くあります

そして、本当に難しいのは
解決することだけでなく

そもそも、だれもが問題だと
思えないことを問題点として
捉えることができるか、
意識にあげることができるか

だと思います。

「知は力なり」とイギリスの
哲学者フランシス・ベーコンは言いました

知識偏重の人は文弱だとして
罵られることもあると思いますし

僕自身、文弱だなあ
と感じることもあります

しかし学ぶということは、

できることは増えねども
認識できるものを増やし
考えられることを増やし
僕らの人生を肥やしてくれます

(すいませんまたふざけました)

そして、認識=解決となる
問題も多々あるということです

冒頭に戻りますが、
単語を覚え文法を覚えることで
英文が読めるようになるように

世界について学ぶことで
世界が読めるようになります

世界から感じる意味が多くなり
毎日の生活が発見に溢れることになります

簡単に言うと、勉強を続ければ
「道を歩けばアハ体験」という
境地が、あなたを待っています

(行きたいかどうかは
微妙かもしれませんが(笑))

「さあ、知の冒険にでかけよう」
みたいな頭の逝った発言こそしませんが

この文章が勉強に意味を見出せない
誰かのお役に立てたなら幸いです

(5400字!!!(笑))