多次元ブログ

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なぜ「姿勢」のことを「体位」というと怒られるのか

ここ1年ぐらい歴史を学ぶことが面白くてたまらない
 
過去を知ることで現在を理解することができるからだ
 
今日は英語の歴史を調べてみた
 
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英語とは現在のイギリスの土地で生まれたものではない
 
発祥はドイツ語と同じく、ゲルマン人が使っていた言葉だ
 
英語の歴史の始まりは、5cにゲルマン人大移動でゲルマン人であるアングル人、ジュート人がケルト人が住んでいたイギリスに侵攻してきたことに始まる
 
結果としてケルト語を使っていたケルト人たちは、スコットランドなど辺境の地へと追いやられてしまった
 
つまり、英語は異民族の言葉だったのである
 
次に大きな変化があったのが、9世紀ごろから(現デンマークの)ユトランド半島よりヴァイキングと呼ばれるデーン人たちとの交流が始まったときである
 
古北欧語を使うヴァイキングとのやり取りの中で古北欧語の影響を受けるだけでなく、バックグランドの違う異民族との意思疎通の必要性から極度に文法が簡略化されたのだ
 
英語が他の欧州の言葉よりも文法構造がシンプルな理由はここにある
 
次に大きな変化があったのは、11cのノルマン人の侵攻のときだ
 
フランス北部のノルマンディーからノルマン人がイギリスに侵攻し支配するようになったことでフランス語が公用語となり、古英語の語彙の85%が失われたという
 
このときにフランス語の語彙が大量に流入した
 
英語は日陰へと追いやられたのである
 
この状況は13cにノルマンディーの領地が失われて14cの100年戦争で英語が表舞台に返り咲くまで続いた
 
そして、14cのペスト大流行でヨーロッパの人口の1/3が失われ、労働者の地位が向上した際に、庶民の言葉であった英語に再び光が当てられるようになったのである
 
このころから公的文書にも英語が用いられるようになり始めた
 
そして、最後に大きな影響を受けたのが16cのルネサンス(文芸復興)によるラテン語への回帰である
 
このときに、新しい概念の数々がラテン語によって表現されるようになった
 
このような流れを受けて現在の英語は、素朴で直接的な表現を得意とする大和言葉的なゲルマン語と、交渉で抽象的な表現を得意とする漢語的なラテン語、フランス語が入り混じったような言葉となっているのだ
 
だから、同じ「始める」という言葉でもゲルマン語由来のstart、フランス語由来のcommence、ラテン語由来のinitiateが混在していて、これは日本語における「始める」と「開始する」のようなニュアンスの違いを表現している
 
getとobtainが、「手に入れる」と「獲得する」の違いに対応すると言ってもいいのかもしれない
 
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そうそう、ニュアンスの違いの大切さといえば1つ思い出深い経験がある
 
高校生の頃に、立っている「姿勢」のことを大声で「体位」と表現していたら(もちろん悪気はない)友達に「体位とか言うなよ」と笑いながら怒られたことがあって
 
僕は「同じ意味なんだからいいじゃないか!」と声高に主張したのだけど、聞き入れてもらえなかった
 
思い返せばそれは、たとえ意味は同じでも、人は使う場面や、言葉から受ける印象、すなわちニュアンスを感じ取り、言葉を使い分けているということの証左であり、
 
つまるところ、外国人の日本語が発音以外にも違和感があるのはそういうことであって、本当に言葉を使いこなすためには、意味の違いだけではなく、微かなニュアンスの違いまで意識して使う必要があるということではないだろうか

なぜ実在しないはずの架空の人物が生きてたり、死んだりするのか?

 

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僕たちは実在しない架空の人物に対しても「生きてる」「死んでる」っていうけれど(たとえば、大河ドラマに関しての会話で「坂本龍馬ってまだ生きてる?」「昨日の放送で死んだよ」みたいな会話が普通に成り立つ。)、実在しないのに生きてる、死んだっていうのって良く考えたら違和感ありありじゃないか?そう思ったので、「本当に架空の人物は生きているのか?」という命題めいた問題提起をして背理法を用いて証明してみたい。
 
まず始めに「架空の人物は死んでいる」と仮定しましょう、死ねるのは生きている人物だけであって死んでいる人は死ねませんから、死んでいる架空の人物は死ねません

。つまり、もし架空の人物が死んでいるならば、その世界においてその人物は死ねないということになり、現在世の中に流布している様々な小説アニメ映画演劇と矛盾が生じます。ということは、架空の人物は生きているということになります。
 
「架空の人物は生きても死んでもいないんじゃないか」という人もいるかもしれません。でも、人間がもし生きているか死んでいるかのどちらかならば、「生きても死んでもいない架空の人物は、人間ではない」ということになり、その「人物めいたなにか」を「人」として呼ぶことができなくなって、これも世の中に流布している様々な物語と矛盾が生じます。したがって、論理的に考えるならば、架空の人物はやはり生きていると言えそうです。(詭弁だと思いますか?)
 
さて、ここで何が言いたいのかというと、別に「架空の人物は実在する」みたいな頭の逝ったことがいいたいのではもちろんありません。
 
僕が言いたいのは、『一般的に言われる「生きている/死んでいる」ということの定義がそもそも間違ってるんじゃないの?』ということです。僕たちは一般に、肉体の死を「死」と定義してますけれど、生きている/死んでいるということの判断に、肉体が実在するかどうかというのは本来関係のない話なのではないでしょうか?
 
肉体が死んだら人は死んだと言えるのでしょうか?死んだら精神がどうなるのかはスピリチュアルな方面の人に任せるとして、じゃあ『「僕たちの頭の中にいる故人」は、生きているのか死んでいるのか』というとどうなんでしょう?
 
さて、これは先の架空の人物のアナロジーですから、やはり「僕たちの頭にいる故人」は生きているということになります。
 
そうです、つまるところ、本当の「生きている」ということの定義は、「誰かの心の中にいる」ということなのではないでしょうか?たとえそれが架空の人物だったとしても、誰かの心の中で生き生きとしているということは、その人物は生きていると言えるのでは?
 
裏を返せば、「人は誰からも思い返されることのなくなったときに初めて死ぬ」ということになります。「誰かの心の中にいる人物は『生きている』と言える」というのは、歴史に名を残している人物が、現代にもありありと影響力を残していることを考えても、直感的にわかることではないでしょうか?
 
これは数学における実数と虚数の関係のようなもの。実数の範囲で考えるから、肉体の死を生/死の判断基準にしてしまう。虚数の範囲まで敷衍して考えるならば、生/死を決めるものは、その人自身の情報の消失を意味するのでしょう。物理空間と情報空間における生死の定義の違いと言ってもいいのかもしれません。たとえ実在していなかったとしても、存在はするということです。
 
さて、ここから僕がいいたいことは1つ。人は死後も「生き」続けるのですから、「人生設計って死後のことも考えたほうがいいんじゃないの?」ということです。
 
概して最適戦略というものは、そのスパンによって変動します。短期的に良いとされる一手が、長期的にも正しいとは限りません。つまり、死後をも視野に入れることで、まさしく今やるべきことが変わってくるわけです。
 
たとえば、奈良の大仏とか法隆寺とか、生きているうちに朽ち果てず、死後にも残るものを作るというのは、そういった思考のある人々が、先祖代代やってきたのではないかとさえ思います。(欲目だと思いますか?)
 
死ぬ時に、自分はどこにいて、誰が自分のそばにいて、そして彼らはどんな表情をしているのか?自分の葬式には誰がきているのか?自分の死体は誰が始末してくれるのか?
 
そして、「自分は死後に、誰に何を残すことができるのか?」
 
死後のことまで考えて行動するかどうかは、その人の好みに依りますが、スパンをどこまで伸ばすかで今やるべきことが変わるのならば、自分はどのスパンで人生を考えるのか、よくよく考え直す必要がありそうです。
 
さて、ここまでつらつらと語ってきて最後に言いたいのは「人生の短さ」について。この世に生を受けてよわい20年ちょっと。さて僕たちは20年というものを実感として持っているわけです。
 
時間の感覚がそんなに大きくは変わらないと仮定するならば、寿命まで生きたとしてもこれをあと2~4回繰り返したら終わりです。年をとると時の流れが早く感じるといいますから、もっと短くて1~2回分ぐらいなのかもしれません。そう考えると、人生の短さが、頭だけの理解ではなく実感として感じられるようになります。こうやって実感もできて、なおかつ計算のしやすい20歳あたりはちょうどいいターニングポイントなのかと。
 
今目の前にある桜も、あと何回見られるのでしょうか?同じく計算するならば、40~80回程度??そんなに見たくないですか?でも、有限であるとわかった瞬間、急に価値を感じるようになりませんか?不思議です。この情緒あふれる感覚を古来日本人は、わび・さびといったのでしょうか。はたまた、こういう情緒を無常観とでもいうのでしょうか。
 
でも。だから。だからこそ、人生は短くて尊い
 
その短さを考慮するなら、魅力の感じられないものに対しては、たとえ1秒であってさえ、無駄にすることは唾棄した方がいいのではないでしょうか?よく生き様よりも死に様を考えるべきだと言いますが、本当にその通りなのでは?人生においてたくさんの取捨選択が行われますが、その基準の1つとして大切なものは、「自分の時間軸に何があるのか」だと思います。
 
そして、「死」というのは、自分の人生軸の行き着く先に必ず、必ず存在するものです。限られた時間を、残された時間を、何に使うかの取捨選択。悩ましい問題であるとともに、それこそが生きる醍醐味の1つなのではないでしょうか。おわり

なぜ人は周りに流されるのか?

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人間とは「人」の「間」と書くように人間の本質とはその「間」つまり社会にあると言えるのではないだろうか。人間は社会的動物だと定義したのはアリストテレスだっただろうか、それは本質を捉えているからこそ2000年以上経って未だに言葉が伝承されているのだろう。

 

さて、人間が社会的動物だから人間は人に流されるという結論では月並みでなんのおもしろみもないので僕なりに心理学(笑)的な観点から考察してみたい。そのためにはまず人の言葉の使い方を見ていく必要がある。

 

アラビア語圏だったと思うのだがラクダが生活に深い関わりをもつ地域ではラクダの右の前足、左の前足、右の後ろ足、左の後ろ足、それぞれに別々の名前をつける言語圏があるらしい。いったいなぜか?その理由は簡単で人は重要なものに名前をつけるからである。重要なものほど会話で人に伝える必要性が出てくるからである。いちいち文章で説明するのは非効率なので短くするために概念を単語に封じ込めるのである。

 

なぜ人間の言語の使い方が人が周りに流されることの理由と関係があるのか?それは至極単純明快なことである。人が重要なものに名前をつける(言語化する)ということは逆に言えば言語が人の優先順位をある程度司っていると考えることもできる。ラクダの右足がなんというのかは知らないけれど、たとえば「λ(らむだ)」という名前だったとしよう。人が会話の中でこのλと言う単語を話していたらそれに注意関心が向く、つまり、ラクダの右足を左足とは区別して意識するようになる。まさしくラクダの右足の優先順位が相対的に上がった証拠である。

 

これは一例にすぎない。言語以外においても人の優先順位とはある程度社会が決めることなのである。身近な人がうまそうなラーメンを食べていたらそれが食べたくなるし身近な人がジムに通っていたりしたらそれが自分の選択肢の中に入ってくるようになる。友達がグミを食べているのをみると、自分がコンビニに行った時にグミが目に入るようになってくる。たとえ好きでなくてもである。そんな感じで意識していなかったことを意識するようになることによって優先順位が変わり認識が変わる。だから人は周り、すなわち社会に流されるのである。

 

人は感じていることを全て意識にあげるわけではない。「今周りにある赤いものを3つ答えよ」そう言われて周囲を見渡せば目には入っていても気づいていなかったような赤いものが意識に入るようになる。意識的に認識を変えるにはこのように意識的に探したいものを探せばいい。しかし、人の認識は無意識にも影響を受けている。この影響を与える正体が「興味関心」である。

 

この興味関心とはいうなれば「無意識に探している状態」である。カクテルパーティ効果といわれるのはこれの一例で人混みの中にいて相手のこれを聞き取れるのは自分が相手の話に注意を傾けているからであり、また人と話している時でも自分の名前が話されているのが聞こえるとそちらに注意をもっていかれてしまう。

 

友達と街を歩いているとよく「今の子かわいいな」という声を聞くが、これは意識して特定の人を探しているわけではない。知らない人を探せようもない。じゃあなにかというと探しているのではなく「かわいい子に興味関心がある」から建物や景色や足元のマンホールよりもかわいい子が目に入るのである。

 

いやそんなしょうもない話がしたいのではない。僕が言いたいのはこの興味関心というのは本能はもちろんのこと社会からも影響を受けるということである。言語の影響から認識が変わるように人の認識は社会の興味関心優先順位によって影響を受ける。自分の所属する社会を選ぶことが大切だと言われるゆえんである。

【パラダイムシフト】信仰→理性→感情

パラダイムシフト】信仰→理性→感情

 

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はたして人生というものが自己実現プロセスなのか自己発見プロセスなのかは僕の知るところではないけれど、というかその両極を線分の端と端に設定すると、さながら加重平均を取るかのようにその間の任意の点を取るのだろうけれど、僕の人生は2度の変曲点を経て、自分の人生を生きる上での指針というものがめまぐるしく変わってきたように思える。

 

というかこのような文体で「宇宙とは何か」なんてことをつらつらと書き連ねていたならば、いつまで厨二病なんだとどこかの誰かからツッコミを受けるかもしれないけれど、まあもうしばらくは大人になれそうな気配はない。努力はしている。でもまあ、大人とは社会人であることとは違ってあくまで相対的なものでしかー(割愛)

 

この世に生を受け(いやしくも産んでいただいて)、物心のついた僕の頭をまず最初に支配していたのは「信仰」だと思う。何度も言うように、これらはあくまでもウエイトの話で、つまり、何にどれくらいの重きがあるのかという割合の話であって、信仰心だけで生きていたわけではない。が、このころは大人の言うことを聞き、授業でならったことを聞いて、「そういうものなんだな」というふうに済ませていた。だからこそ、知識の丸暗記ができて学校の授業では良い点数が取れたのだと思う。疑うことを知らないということは、感情的ではあったとしても理性的ではない。それはたとえ宗教を信じていなかったとしても宗教的な生き方だとは言えるだろう。

 

しかし、この生き方に限界がきたのは大学受験に落ちた時だ。厳密に言えば落ちるまでの過程ではあるのだが。この時期に悟ったのは、信仰で問題は解けないということだ。これは受験の問題に限らず、人生の問題に一般化して言えることだと思う。この転換期を経て、理性というものが僕の関心、つまり、注意の視野にほっこりと顔を出してくるようになる。本当にこれでいいのか、なぜうまくいかないのか、論理主導の問題解決によって少なくとも机上の問題は解けるようになっていった。

 

理性主導で動けるようになった僕は、論理的に正しい、論理的にやるべきだということを自分の思うままに行動することができ、人間の認識は知識と経験によって成立っているのでたくさんの知識を詰めて経験をしよう、そう思って授業でも良い成績をとったし、たくさんの新歓に顔を出して200人弱の名前を覚えた。

 

バイトとサークルでつねに予定を埋め、朝から晩まで動き回った。夏休みには淡路島で15時間労働なんてこともあったし、冷気の充満するトラックの荷台において、手の届かない高さにある冷食の段ボールをジャンプして引っ張り下ろし、地上でキャッチ。そしてそれをリアカーまで運ぶということもやった。

 

原チャで野を超え山を越え、兵庫県の上の方に行って、シェフの被る、いびつな煙突みたいな帽子を被ってクレープを焼き、アイスを盛り付けていたこともあったし、埋め立て地の華々しいブライダルにサービスの仕事に行き、結婚式で論理を絶した幸せにまみれている夫婦が披露宴をすませ、燦々と降り注ぐ気持ちの良い5月の日光の中で会食を楽しむところを見送り、夜間まで片付けをして原チャで本土に帰宅途中。真黒な闇に燦然とまるで希望のごとく光り輝く、山の斜面にミルフィーユ状に展開するどこか異国風で歴史のあるお洒落な神戸の夜景をまぶたに焼き付け、ああ、と息とともに感嘆の声を洩らしながら寮に帰宅。

 

ショーシャンクの空に、の脱獄後のシーンのごとく歓喜の雨でも浴びるかのように顔面からシャワーを当てて汗を流すとともに、身に降り注ぐ不幸を雨に見立て、その不幸をもってこそ魂を浄化できるというカタルシスを歌い込んだ(と僕が思っている)、美空ひばりの愛燦燦を彷彿とさせながら、労働で荒んだ心の汚れをも浄化して、疲れきって布団にダイブ。なんて日々を繰り返していた。

 

不思議とつらいとか、疲れとかを感じることはなかった。いや、あるにはあったが、それが眼前に視覚化されて顕現すること、つまり、大きな関心を持って意識にあがることはなかったのである。

 

、、、いささかこの文章に終わりが見えないことと、時間とスケージュールを慮ってみるとやるべきことを履き違えているような感覚に見舞われたので、理性から感情への経過は次回というか気が向いたらということにしたい。続

 

人間が神を創造する理由

結果を見ただけじゃ原因はわからない

 

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なにごともそうであるが、結果を見ただけじゃ原因はわからない。バタフライエフェクトとはよく言われるが、たとえばテキサスで起きた竜巻がブラジルで1匹の蝶が羽ばたいたことによって生じたと言われてもそれは嘘だとは言えないのである。

 

なぜか?たとえば、他にも例を挙げるとするならば、天気予報というのはなぜ外れるのだろうか??それは現実世界があまりにも複雑なので天気予報を正確に計算する計算式を作ったところで、その計算式に入力する初期値が正確に計測できないからだ。結果として、どんだけ科学を突き詰めたところで正確に予測することはできない、ということが科学的にわかるわけである。

 

話が逸れたが、なにが言いたいのかというとある結果においてその原因は一義に定まるものではなければ、突き詰めれば突き詰める程出てくるということである。

 

たとえば、僕は字が汚いのだがそれには原因が二つあった。1つには、それぞれの字の正確な形を知らないこと。2つには、僕の脳みそ的に内容に集中するか、文字を綺麗に書くことに集中するかのどちらかしかできないということだ。一文字ずつを綺麗に書こうとすると書けるからである。内容に集中すると気づけば文字が乱れているということが起こる。それならば、内容はたとえば、パソコンで一度下書きをしてそれを移すという風にすれば解決出来る。

 

こんな偉そうなことを言える立場ではないが、世の中の人は得てして、物事を突き詰めるということをしないと思うのである。たとえば、文字が汚いのは、自分の性格のせいだ、と一度決めてしまうと、突き詰めることをしない。なぜこんなことを主張しているのかというと自分が昔そうであったからである。

 

文字が汚いのは仕方ないことではない。しかたないとか、当然だとか、ある答えを一義に定めることは思考停止をするための口実でしかない。人はよくわからないものに対して答えを求める生き物である。たとえば、野球が上手い人がいて、その人がなぜそんなにも野球が上手いのかわからない、ああ、これは才能の違いなんだ、という口実をつけて思考停止をするわけである。

 

さきからいうように、結果をみて原因はわからないのである。その人が野球が上手いからといって、それは才能なのか努力によるものなのか、そんなものはわからないのである。だから、才能だと決めつけて思考停止することは自分の負けを正当化し、努力をしないための言い訳でしかない。

 

人はよくわからないものに答えを求めて、それで思考停止をするものである。実際、いろんな人に才能とは何かと聞いてみても答えられない人が多いし、人によって答えは様々である。結局、さいのうなんてよくわからないのである。

 

神が存在する理由もそこにある。人は超常現象、たとえば、なぜ宇宙は存在するのか、なぜ人間は生まれてきたのか、などなどよくわからないものに対する原因、答えとして神を作り、神話を作った。そして思考停止に陥るわけである。雷が落ちるのは雷神様が怒っているからだ、台風が来るのは風神様が怒っているからだ。と。しかし、突き詰めてみれば現代の科学でわかっているように雷は積乱雲の中での氷の粒の摩擦から生じるものであり、風だって海水の蒸発、気圧の高低差などから?生じるものだったはずである(不勉強なので自信はないが)

 

つまり、答えを定めることは思考停止であり、自分ができないこと、わからないことを正当化するための口実にすぎないということである。人間、時間さえかければ不可能なことはない、文字が汚いのであれば答えを安易に求めるのではなく、その原因をどこまでも突き詰めて考える必要がある。そしてその原因を潰せばおのずと文字は綺麗に書けるようになる。

 

なんどもいうが人間にできないことはない。人が空を飛べるなんて一昔前までほとんどの人が想像しなかったであろう。不可能はない。不可能はないのだ。ただし、不可能がないからといって、なんでもかんでもやればいいわけではない。なぜなら、人には寿命があるからだ。

 

確かに人にできないことはないが、大切なのはそれにかかる時間である。受験においても18歳までに一定の学力をつけることが価値なのであって、何浪もすれば本当にだれでもある程度いい大学には入れるものである(時間と労力をかけて手段を選ばなければ本当に入れる)

 

しかし、大事なのは合格できるかどうかではなく(いや、合格しないとなれない職業があるならべつ。たとえば医者とか。)自分のできることからかんがみると、どのくらいの時間と労力がかかるか、という点である。

 

つまるところ、何をやるのかというのは、できるかどうかではなく、どのくらいの時間と労力かかるかこそを考えるべきであり、人よりも時間、労力がかかる分野とは自分の苦手な分野だということなので、そのフィールドでの戦いを避けて、自分の勝てる場所で戦うべきだということであろう。

 

ちなみに、文字の練習において、お金にまつわる文字が多いのは僕が経済学部だからということにしておきましょう。

何が正しくて何が間違っているのか

クラス1の人気者だったあいつが、、、

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よく40歳とかにやる同窓会とかで、クラスの人気者だった奴がぱっとしなくなっていたり、逆に大人しかった奴、いじめられていたやつが社長とかになってもてはやされていたりするらしい

 

高校までの学校生活においては、スポーツができるやつ、勉強ができるやつ、ただたんに面白いやつ、みたいなタイプが、正義として、あるべき姿として、理想像として、描き出され、それに人が群がり崇拝するような学園ヒエラルキーが形成されている

 

それから放り出され社会人のヒエラルキー、資本主義のヒエラルキーに放り出された途端に、序列の再編成が行われる。新しい正義の元に人々は並び替えられる。さながらアルファベット順に並んでたものが、あいうえお順に並び変わるみたいに、はかられる尺度というものが変わるのだ。

 

人が集まり、任意の社会集団が誕生した時、その集まった人からさながら湯気のごとく、あふれ出んとするオーラのごとく、社会的、集団的無意識に基づいた正義を醸成する。そして、その正義という尺度によって人々は序列化され、そこにそびえたつピラミッドのごときヒエラルキーが誕生する。

 

そして、そのヒエラルキーの頂点に君臨する、あるいは君臨したものであっても、そのヒエラルキーから放り出されれば、また移り変わった集団の正義、尺度によって序列化され階層化された結果、そのヒエラルキーにおいては最下層に位置づけられることもある。

 

それこそ、骨董品の価値などわからない、そもそも関心すらない学園ヒエラルキーに所属する子供たちにとっては、モナリザの絵など他の絵と区別はつかないし、それよりも漫画の方がはるかに価値のあるものだろう。

 

つまるところ、社会の正義は流動的であり、同じ人物でも、同じものでも、どの社会集団に入るかによって違う尺度で測られるわけで、足が速くて学園ヒエラルキーにおいてはもてはやされた人が社会に放り出された結果、使えないとレッテルを貼られることもあるように、

 

どのヒエラルキーで戦っていくのか、自分を知り見極める必要があると思うと同時に、社会の正しさに流されずに、自分が何が好きで嫌いか、どういう風に生きたいか、つまり、自分なりの正義というものをを持つ必要もあると私は思うのである。

「お前は自分を出してない」

「お前は自分を出してない」

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そう言われたのが去年の今頃。時の流れはとても早い、まさしく、光陰矢の如しである。最近やっと人に興味が出てきた。慣れない仕事もやってみるものだと、深々と感じ入ってるここ最近で候ふ。

 

10歳ぐらいから10年間は、僕は正直、人に興味があまりなかった。すごい辛辣というか、恩知らずというか、人としてあるまじきことだと思うが、本当にそうなのだ。

 

人は興味がないもの、知識がないものは皆同じに見える。たとえば、英語を読めない人からしたら、英文学の文章も、科学誌の学術論文の英文も区別はつかないだろう。そうな感じで、僕は長い間、人を類型としてしかとらえることができていなかった。インテリ、パリピ、インキャ、文武両道のスーパマン、腐女子、などなど。

 

言葉があるものしか認識できていなかったし、会う人会う人その類型のどれかにラベリング、カテゴライズしてそのレッテル貼り、分類分けが終わればそれ以上その人に対して深掘りしていくということはしなかったのである。まぁ、誰でも少なからずその傾向はあるはずだが、僕はそれが顕著に顕れていたというだけのことではあるけれど。

 

僕にとってはそれよりもむしろ、世の中の普遍法則、物理法則とか、人に共通する性質とか、そういった、物的なもの、およそ人ではないものにしか意識が向いていなかった。

 

なんだろう、こうやって人に興味を持ってみると、自分がコミュニケーションという点において随分遠くれていることに気がつく。おそらく、英語、数学、国語、えとせとら、そういったものにおいて、世間一般(まあ、そんなものは物理的には存在しないが)からしたら秀でているのに対し(まぁ、さすがに時間かけてやってきた分ね)逆に、僕のコミュニケーションの能力といえば、世間一般の人をはるか下から見上げているような状況である

 

わあ、よくそんなことできるなあ、と。たいていのものにおいて、一度落ちこぼれると、人は、というか僕はやる気が出ないものであるのだが、この点においては、人間関係という点においては、人生を構成する要素というものがあったとして、その多くのウエイトを占めているのは間違いがなく、逃げてばかり、というか目を背けてばかりはいられないなあ、と、

 

他の人が勉強に取り組むのが億劫であるのと同様に、僕自身、苦手意識と億劫さなどを乗り越えて誠心誠意取り組んでいこうと決意する今日この頃である。